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高い志

 

医者です。


これまでの人生で、医者になろうとしている人と話をしたことはない。

先日のzoomでお話した弘前大学の方は医者の卵だった。

私が医者と話をするのは、「あんた、黄色いね!」とか「あ、便秘の人!」と嬉しそうに宣告される時だけで、およそ会話とはいえなかった(でも私はこういうあっけらかんとどつき倒してくる医者が好きだ)。

医者に関わるのは、毎年の健康診断と、10年にいっぺんくらい調子が悪くなった時くらいである。念のため記しておくが、私がかかる医者は、人間を診る医者であって、獣医ではない。たまに、お間違えになる方がいらっしゃる。

 

zoomの方が医者を志したのは中学生の頃だという。

かつて、私にも志はあった。

将来の夢と言うやつ。

年金生活とか、長生きとか、猫になりたいとか。

 

あ、ちょっと待って。今、ページをそっと閉じようとしたでしょ。

理由を聞いて。悪いようにしないから。

 

 

猫になりたいのは、四六時中寝ていても飯が食えるからだ。飼い猫に限るが。

寝ているだけで、そこに存在しているだけでかわいがられるからだ。

よく猫と引き合いに出されるのが犬であるが、彼らは悲しいかな、何かと気を遣わねばならない星のもとに生まれている。

まず仕事を与えられる。

人が来たら吠えろとか、人が来ても吠えるなとか、穴を掘るなとか穴を掘れとか。

仕事以外にも、花見の余興の訓練もさせられる。お手とかお座りとか、撃たれる真似をしたら死んだふりをしろとか。

そして精神論を叩きこまれる。帰宅した主人を全力で盛り上げるホスピタリティとか。

 

これらはしかし、猫にはない。今時ネズミを捕らせる飼い主もいまい。余興も強要しない。ホスピタリティなんて糞食らえ。つまり、無職で、年金もかけてないのに死ぬまで手厚く保護してもらえる。

人間は懸命に働いて猫に貢ぐ。人間をしもべに仕立てるのが猫である。

猫は勝ち組だ。あいつらは生まれながらの勝ち組なのだ。

 

私がかつてなりたかったものは猫でしたと明かすと、医者の卵氏は、パソコンの向こうで一瞬固まった。

wifiの電波状態の不具合かもしれないが、そうでなかった場合、この猫になりたかったと話すチンパンジーのような人間と、このままzoomを続けていても大丈夫だろうか、という不安がよぎったものと考えられる。

 

しかし、医者になろうかって人はメンタルが強かった。

 

卵氏は、気を取り直した。そして、こんな人間にもその方は大変礼儀正しく、終始穏やかであり続けた。品さえあった。

人の話をしっかりと最後まで聞く方であった。

医者の神髄を見た気がした。

 

ちょっとここで脱線するが、夢ってのは、意識無意識問わず、すでに可能性の射程に入っているものじゃないだろうか。

私は医者になろうなんて考えたこともない。医者というのは「なる」もんじゃなく「かかる」もんだという認識だからだ。選択肢に入らない。

全く可能性のない夢は見ないもんだ、と聞いたことがある。人間は、ここに関しては謙虚らしい。

周りにいる人間の影響もそりゃあるだろう。

 

「お前の友人、5人教えろ。そしたらお前自身がどういう人間か教えてやる」

と、昔の偉いおじさんは言ったが、そういうことだ。

周りに医者を目指すような人間がいる環境に身を置けているということは、自分も同等だから。

周りにそういう人間を置けというか、そういう人間のいるところまで自身を持って行け、というか。

 

私の「年金生活」「長生き」「猫になる」の三馬鹿トリオのような夢であるが、なるほど、当時、老人2、3人と、猫数匹に囲まれていた。老人は日によって増えたし、猫も時期によって増えた。

これほどまでに夢が身近にあったのだ。当然、射程に入っていた。私だってやればできる、と思っていたのだ。

逆に言ったら、医者の卵氏は将来は「猫になる!」とは思いつきもしない。眼中にない。

私が思いもつかなかった、医者になる夢を抱いた医者の卵氏を讃えたい。

ならば、医者の卵氏が思いつかなかった猫になりたいという夢を持っていた私だって讃えてもらっていいはずだ。讃えよ。

(この辺の理屈、破綻してませんよね)

 

 

この疫病大流行の今、何も起きていなかった時代より背負うものは重たく大きく、多い。

応援してます。

心身ともに健やかでいてください。

無理しない程度に、ほどよく頑張ってね。